トイレに隠れた少女

 

「止めて、来ないで頂戴。私をそっとしておいて……!!」


ただ、ちょっと遅くまで教室に残ってしまっただけ。
ただ、気が付いたら誰もいなくて一人だっただけ。
荷物をまとめて帰ろうとしたときに、まさか他にも生徒が残っていただなんて吃驚したけれど、それだけ。
全く知らない男子生徒だ。名前も浮かばない、平凡な生徒。
何事もなかったかのように、すれ違おうとした、その時。
誰かに腕を掴まれた。いいえ、彼だったのでしょうね。無理やり向かい合った時に、同じ学校の制服だったから。
乱暴に服が暴かれていく。シャツのボタンは一部弾けてしまった。
抵抗しなかったわけじゃないの。でも、男の子の力がこんなに強いだなんて思わなかった……!
彼の手がいよいよ無遠慮に私の肌を撫でた時、もう形振り構っていられず、暴れてみた。
すると足があまりよくない場所に当たったみたいで、彼はお腹を抱えて蹲ってしまった。
逃げるなら今しかなかった、そう思うでしょう?

廊下が長いのは何故?いつまで走らなければいけないの?
お願い、追いかけて来ないでよ。喚く声がずっと聞こえる。
今になってこの学校の悪い噂を思い出す。私が、こんな目に逢うなんて。
嫌、嫌、来ないで。怖い、もうずっと走ってる気がする。どうして。
お父さん、お母さん……助けて利知。
疲れてしまったのか足がもつれて、私は転んでしまった。
後ろから、後ろから近づいてくるのがわかる。
目の前にはやっと、突き当りの壁がある。横に進めばトイレか特別教室がある。
どっちへ行っても袋小路だ。……鍵を掛けられるなら、トイレのほうがいいかな。
私は立ち上がると、冷たい空気の、タイル張りの小さな部屋に駆け込んだ。
適当な個室に入って鍵を掛ける。息を潜めて……嗚呼、でもやっぱり来るんだろう。
足音がタイルを踏む音。扉の下、小さな隙間から影が蠢いているのが見える。
それはやはり、私の隠れている前に立ち止まった。
扉を叩く音。何度も強く叩く音が響いて頭が痛い。
さっきから何を叫んでいるんだろう。怒っているのかしら。
ごめんなさい、と、呟いた。でも小さすぎて、彼には聞こえていないはずだ。
私は小さくなって、目をつぶって耳を塞いで、何度も謝ってみる。それしか出来なかったから。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

気が付けば辺りは暗く。
肌を刺すような冷気。
もう恐ろしい騒音は聞こえない。
ハッとして、顔をあげた。もう大丈夫なのかと。顔をあげてしまった。
小さな箱の中から見上げた正方形の天井いっぱいに暗闇が広がっていて、一対の目が恨めしそうに私を見ていた。


誰でも良かった、と言う気分が本当に存在するとわかったのは自分が女子に腹を蹴られてからだった。
ここまでやったからには彼女に口止めさせなければいけなかったし、ていうか、痛いし。
興奮状態だったと思う。廊下は長く思えたし夕焼けは異様に暗かった。
彼女はトイレに隠れたが、他が使われて無いせいでバレバレだ。
閉じた扉を叩いだ。さっさと出てこいと怒鳴った。適当な罵声も浴びせてやった。
しかし彼女は出てこない、それどころか……気配すら無い気がした。
途端に怖くなって、目線を低くした。隙間から覗くと誰もいなかったのだ。
……夢でも見ていたんだろうか。苦しい心臓を抑えながら廊下に出る。
彼女が置き去りにした、彼女の鞄があったから。俺は、急いで学校を飛び出した。


藪乃坂水橋高等学校に在学の伊達清子さんが行方不明となりました。
廊下に置かれていた伊達さんの荷物に不可解な点はなく、当日の様子にもおかしな点は無かったようです。
鞄に指紋が発見されたため、その男子生徒に事情徴収をしていますが、手掛かりになる証言は得られていません。

伊式十三丸